アウトサイダーアートという枠でくくることは野暮なのではないかということ

以前、椹木野衣 『アウトサイダー・アート入門』(幻冬舎新書、2015年)という本を読んだことがありました。

幻冬舎 書籍紹介ページ
https://www.gentosha.co.jp/book/b8668.html

全体の2/3くらいでアウトサイダー・アートの文脈で語られる作家について概観して、そのあと著者による結論が述べられているのですが、わたしにとってあまり同意できるものではありませんでした。
美術史という、新しさを更新し続ける世界が袋小路に陥っている中で、アウトサイダー・アートと呼ばれるようなものに可能性を見出しているという結論だった、とわたしは読んだのですが、そういう見方にあまり意味を感じなかったのです。

どういうことかというと、アウトサイダー・アートという言葉でくくられる、歴史上活動してきた(活動してきたという言葉は適切ではないとも思いますが)人々は、もはやアートという枠でくくられる必要がないのだと感じているのです。

おそらくは、そういう枠でくくられたような人は、もはや美術ではないような形で活動をしているだろうということ。
たとえばヘンリー・ダーガーがいま生きていたら、アニメや漫画の二次創作のようなものを書いていたのではないか。
10年以上前に放映されたアニメの、もはやほとんど誰も見ていないであろう二次創作SSまとめサイトで、誰にも頼まれずに大量の文章をUPしている人がいるのに気づいたときにそう思いました。

もちろん、そういうものを美術として語ることはできるかもしれません。
でも、それを美術として語る必要があるのだろうか?

それは単に、美術という枠、美術という価値観の中で生きている人が、美術を延命させようとしているだけなのではないか?
そもそも美術を延命させる必要があるのでしょうか?

当人が美術という意識を持たずに制作しているものを、美術やアートという言葉でくくることは、価値観の押しつけであり、当人にとっては迷惑千万なことなのではないか?
まあ逆に、アートという「アガリ」に行き着くことができて嬉しく思う可能性もありますが……。

美術という枠、アートという枠、ファインアートという枠でくくることは野暮である。
漫画やアニメに関する展示を美術館で行うことは、漫画やアニメの価値を逆に貶めているのではないか。

他のさまざまな分野がそうであるように、美術という分野も、美術というムラの価値を高めようとしているだけなのではないかと思ったのでした。
「写真」という枠もそうです。

もちろんわたしは美術というものを好んではいるのですが……。
なまじ美術やアートという枠で物事をやっている人よりも、そういう意図を持たずに活動している分野のほうが美術史を更新している可能性が高い。
そして、それを評論するうえでは美術史というものは有用なツールですが、そういったものをアートと呼ぶことはレッテルを貼っていることであると感じるのです。