カメラ好きであること、権力への親和性

わたしはカメラ好きである。
機械が好きである。

カメラを修理したり、動画を作り込んだり、そういった工芸的な行為に心の底から喜びを感じる。
いっぽうで、音楽に魂を震わせたり、芸術作品を作ったり、そういうことに対して、工芸的な行為と同じようには喜びを感じる回路を持ち得ていない。
そのことに以前からコンプレックスを抱いている。

このコンプレックスとおそらくは同根なのだが、機械を好んだりする人であるがゆえに、同じ論理によって権力への無批判な憧れを抱いてしまう人間であることを悩んでいる。

戸田昌子先生が編集を務めた岡村昭彦についての書籍を読むなかで、岡村昭彦は批判的な視点から(資本主義への批判という観点から)企業の社史を読むという行為を薦めていたということを知った(「座談会 女性が学ぶということ」『シャッター以前 vol.7』 2021年、岡村昭彦の会、p.5, p.9)。

『シャッター以前 vol.7』(忘日舎の電子書店)https://vojitsusha.stores.jp/items/6077e376230557628eb8d936

企業の社史。
これはまさに、わたしのようなマニアが、カメラという機械を、政治は抜きにしてたんに機械として研究するときに、自発的に好んで資料として用いているものである。

また、カメラマニアと愛好家の層が被っている趣味に「廃道趣味」というものがある。
廃道趣味では、東北地方の廃道について語るとき、三島通庸という人が肯定的な文脈で、明治時代に道路を築いた偉人として頻出する。
だがご存知のように、三島通庸は一般には鬼県令として知られている人物である。

わたしも、自分自身の心地よさのレベルでは、このように権力の側が為したことについて肯定的に捉える嗜好を持っている。

だが同時にわたしは、単にその心地よさを持つことはたぶん正しくなく、そういう歴史を批判するほうに理があるとも感じている。

そういった権力批判について理があると感じてはいるのだが、それは、自分が根源的に気持ちがいいと感じるものを否定することでもある。

機械。工業。土木。建築。
そういった、一連のつながりを持っている(愛好家の層もそれぞれ重なり合っている)趣味を、無批判に行うことがわたしはできなくなっている。
この悩みはずっと持ち続けていて、5月に一度、カメラについて語る活動を停止しようとしたきっかけにもなった。

自身の心地よいことを単純に行うことは人を傷つけることなのではないか。
自発的な素朴な快と、おそらくは正しいと思われることの齟齬。
この齟齬をまだ解決できそうにない。