1.完成度を高めること 2.死と永遠への恐怖

わたしの行動は2つの行動原理に基づいていることに気がついた。

それは

  • 1.物事の完成度を高めること
  • 2.死と永遠への恐怖

である

1.物事の完成度を高めること

これはわたしが元来心地よく感じる行動原理である。

子供のころからそうだった。

そうプログラムされているといってもよい。

たとえば、いまわたしはカメラについての動画を作っている。
また、カメラを素人分解して、一応動くようすることをしている。

機械を直すこと、動かなかったものを動くようにすることの心地よさはわかりやすい。
(能力が未熟であることはさておき)物事に秩序を与えて、整った状態にすることである。

動画を作ることも、成果物の質を高めるという意味で心地よい行為である。

わたしという人間にとって、このことは善し悪しを判断するまでもなく、自明に心地よく感じられる行為である。

つまり、この「1.物事の完成度を高めること」はわたしが本能的にもつ行動原理である。

2.死と永遠への恐怖

これは理性にもとづく行動原理である。

おそらく誰しも、人生においてそういう瞬間があったと思うのだが、
子供の頃、死という概念に気がついた。

人は死ぬ。
では、死んだらどうなるのだろうか?

無になるのだろうか?
無というのは主観的にどういうものなのだろうか?

いっぽう、もしも死後の世界があったとしたら?
死後の世界があるということは、おそらくそれは終わりがなく、ずっと続くものだろう。
でも、終わりのない永遠というのは、出口のない恐ろしいものなのではないか?

死ぬことは怖い。
だが、永遠も同じくらい怖い。

この非常に単純なことに気がついてから、このことがわたしの原動力になっていた。
そうであることに、最近やっと気がついた。

わたしが自分の行動にいろいろな言い訳をしているのは、結局、死と永遠が怖いことへの言い訳にすぎなかった。

わたしが、死と永遠への恐れを覆い隠すために、ある時期に考えついたのは文章を書くことだった。
たとえば、小説を書き残すことで擬似的に自身という存在を残すことができると考えたのだ。

いま、カメラについてコンテンツを作るなかで学問の真似事、つまりは可能な限り物事のソースを提示しようとしているのも、まったく同じ動機である。
知識という形で、ほかの人間に自身の一部を残すことで、自らを(擬似的に)永久に残そうと試みているのだ。

人によっては同様の動機で子供を残すこともあるだろう。
誰かに自分の知っていることを伝える、教えることを選ぶこともあるだろう。

ただ、このこともまた究極的には死や永遠に対して意味を持たない(たぶん)。
人類はいつか確実に滅びるし、宇宙はいつか確実に終わりを迎える(さまざまな結末が考えられるが、人間にとって「終わり」という言葉で表して差し支えのないものであることは確かである)。

この、死と永遠への恐れは、人によっては冷笑という言葉で表すこともあるような諦観にもつながっている。
現状では、擬似的な永久への試みと、もしかすると人類(もしくはなんらかの知性)がいつか永遠を超越できるのではないかという宗教的希望にすがっているのだが、それもたぶん意味がないことである。

この1ヶ月くらい、伊藤計劃の『ハーモニー』『虐殺器官』を読んだり、劉慈欣『三体』をパートIIIまで読んだりと、現代SFの名作に立て続けに触れることができた。
これらの作品はわたしに非常な感銘を与えてくれたのだが、それはおそらく、わたしが根本的に抱えている死と永遠への恐れに、答えを与えてくれることはないにしても、そういう恐れを持っている人がたぶんいるであろうことを教えてくれるからである。

(この文章を書いているのは三体IIIを読了した直後だが、自分自身の行動原理が死と永遠への恐怖にすぎないことに気がつき、文章を書こうと思い立ったのは三体IIIを読み始める直前だった)

正直なところをいえば、わたしは自分の人生を誤ったと考えている。
カメラや写真についてなんらかの出力をしていることは、自身の力量の範囲でできる行為によって恐怖に抗っているにすぎない。
せめて、もっと世界について深く知ることができる道に進むことができたらよかったと思っている。
だがきっと、そういう道に進んだ人も同様の無力さに直面しているのだろう。

わたしは本能レベルでは完成度や秩序に快感を覚えている。
そして同時に、死と永遠に対して恐れを抱いている。
この2つがわたしをつきうごかすものである。