IMA Vol.36 長島有里枝インタビュー&TOKINON インベカヲリ★インタビューを読んでのこと

IMA Vol.36に掲載された長島有里枝へのインタビューを読んだのでいくつか。

長島有里枝 ―― フェミニズムの視点からその先へ【IMA Vol.36特集】 | ARTICLES | IMA ONLINEhttps://imaonline.jp/articles/archive/20211118yurie-nagashima/

写真家・インベカヲリ★がノンフィクションを書く理由 – TOKIONhttps://tokion.jp/2021/11/18/kawori-inbe/

IMA Vol.36 長島有里枝インタビュー

私見として、わたし自身を含めカメラの人というのは、フェミニズム、フェミニストというのを苦手とすることが多いと思っている。

以前、長島有里枝の著書について動画を作ったときに自分自身の加害性というものを自覚して、それ以来いまに至るまでさまざまなことで抑鬱のような状態に陥るようになった。
(これは長島有里枝のせいだということではなく、加害性のような新たな概念を自覚したという意味)

長島有里枝 『「僕ら」の「女の子写真」からわたしたちのガーリーフォトへ』 書評

たとえば今後の社会の潮流によっては、わたしが(この用語はすでに古いものとなっているが)いわゆるバ美肉ということを行っていることが、女性からの文化盗用に等しいこととみなされることは十分に有り得ることである(女性という単語を単純に用いてはいけないのだろうことはさておき)。
わたしはそうなることを望まないが。

なので長島有里枝の著書についての動画とblogを一度非公開にしたりもした。

さて、そういうなかで今回紹介されて流れてきた長島有里枝の記事を読んだところ、思った以上に腑に落ちるところがあった。

例えば、現在のプリクラではデフォルトで顔がレタッチされるということ、昨今のスマホのカメラアプリにおけるフィルターについての話。

いじった画像をSNSに載せれば素顔を知られなくて済み、ストーカーなどの被害に遭いやすい若い女性にとって安全策にもなります

この部分についてはわたしがVtuberというアバターを用いている動機――匿名でありたい――と通じていると感じた。
もちろん「ストーカーなどの被害に遭いやすい」というような切実さと一緒にされることを好まない人もいるだろうが、(とくにインターネットにおいて)匿名でありたい事情はそれぞれにある。
自己正当化のために思想を利用しているといわれる可能性もありうるが、おそらく大きく間違った受け取り方ではないと思う。

「自ら声を上げない存在」への言及

この記事を普通に読み進めることができたことは、IMAという信頼の置ける媒体で、まとまった文章として、編集というフィルターが掛けられているからこそだと思う。

いっぽうで、わたしはSNSにおける運動や発言からは距離を置いている。
Vtuberとしての活動もそうだし、Vtuberというアバターを用いない現実の人格においてもそうである。

そういう態度のことを日和見主義であると批判する人がいるなかで、この長島有里枝の記事では「発する声がない存在」について言及していることに救いを感じた。
「発する声がない存在」というのが飼っていた犬を指すのが辛いところなのだが、そこからの話の流れが

「自ら声を上げない存在を思いやって行動していく必要」

「当事者とはなにか、という疑問」

「当事者の語りが一番だと考えてしまうと、それはそれで見落とすなにかがある」

「向き不向きや興味の有無、本人の選択などによっても差は生まれるし、その社会集団全員がバトラーを通読するみたいな高い教育を受けることが直接、わたしたちの幸福の必須条件かどうかもわかりません」

と展開していくので、自ら声を上げない人の一人であるわたしが、長島有里枝の発言に救いを感じ、自分はけっして社会運動に敵対する人ではないと思わせてくれたことは間違いではないのだろう。

(写真の人ではなく)カメラの人がフェミニストや社会運動を苦手に感じがちなのは、単純に政治的に声を発するスキルを苦手とする傾向があるからではないか。
わたし自身はそうである。
政治的な怒り、政治的な争い、政治的な運動の話題を目にするとそれだけで脳が処理能力を超えてしまい、活動を停止してしまう。
単純に怖いと感じてしまう。
声を上げることは、知的能力や身体能力とはまた別個の、人それぞれに得意不得意のあるスキルである。
これは牽強付会なのかもしれないが、声を上げることも人によって得手不得手のあるスキルであるという解釈が一致していることに安心を覚えたのだった。

TOKION インベカヲリ★インタビュー

さて、その直後にTOKIONというサイトに掲載されたインベカヲリ★インタビューを読んだのだが、こちらが問題で、はっきりいってなにもわからなかった。

著書 『家族不適応殺 新幹線無差別殺傷犯、小島一朗の実像』(2021年、KADOKAWA)についての内容である。

インベカヲリ★がわからない

以前わたしのチャンネルでは、ハマチャンさんに薦められてインベカヲリ★さんの写真集『理想の猫じゃない』をレビューしたことがあった。

インベカヲリ★写真集 『理想の猫じゃない』感想

そのときは、非常に写真集の内容に共感を覚えた。
「わかりがあった」という表現が最も適切かもしれない。

被写体となった女性の境遇、人生というのは、わたしがこの数年生きてきた世界、界隈で見聞きしてきたものばかりだったからである。

『理想の猫じゃない』を読んだとき、インベカヲリ★さんから被写体の人々へ向けての同じ世界からの目線を感じた。
そもそも『理想の猫じゃない』には、他の被写体と並列にセルフポートレートも収められている。

無差別殺傷犯に「わからない人」という前提があるのがわからない

だからこそ、『家族不適応殺 新幹線無差別殺傷犯、小島一朗の実像』についてインベカヲリ★さんが語る内容は、発売前のツイートの時点から腑に落ちないものがあった。
これはわたしの誤読の可能性もあるが、犯人のことを理解に苦しむ人とすることを前提として語っていたからだ。

いやいや、そうじゃないでしょ、『理想の猫じゃない』の被写体と同程度には、インベカヲリ★さんと地続きの世界にいる人じゃないの!? という気持ちになったのだ。
もちろん、この感想を書いているわたし自身とも、犯人は地続きの世界にいる人であると感じる。

小田急や京王線で通り魔をした人も、2008年に秋葉原で通り魔をした人も、自分とは地続きの世界にいる人だと感じる。
そう感じるわたしのほうが、犯罪者にシンパシーを覚える危険人物なのだろうか?

自分が犯人の立場にいたかもしれないということ

インベカヲリ★という写真家が、自分が犯人の立場にいたかもしれないという想像力を持っていないはずはないと思う。
ならば、書籍の営業上の理由でそういう発言をしているのだろうか?

はっきりいって、わたしはインベカヲリ★さんがわからない。
『理想の猫じゃない』において、周縁の人に対する理解を読み取ってしまったがゆえに、よりわからなくなっている。

なぜこんなにも突き放すことができるのだろうか。
インタビューの内容自体、とても感情に乏しいものに見えた。

最後の節に男性、女性という話があるが、それが要因なのだろうか?

インベカヲリ★がわからない。