去る2026年8月11日から14日にかけて、埼玉県の自宅から、岩手の自転車乗りの友達の家まで3日かけて走ってきた。
4日目は友人に、地元の街を自転車で案内してもらった。
※この旅行については、YouTubeの動画で詳しく紹介しています。
2日目 2026年8月12日 福島県いわき市~宮城県仙台市
朝5時にホテルを出発。
いわきの市街地を抜けて太平洋沿いへ。
画像はいわき市の久ノ浜。
非常に美しいが、震災の被害を受けたところでもある。
常磐線の久ノ浜駅。
このあたりから、こういう雰囲気のある駅を見かけるようになってきた。
さて、原発周辺の地域が少しずつ近づいてくる。
広野町あたりから、震災のときによく聞いた地名を見かけるようになってきた。
広野の市街地あたりで、国道6号から海沿いの福島県道391号に入ることにした。
これは常磐線のJヴィレッジ駅。
常磐線が全線営業再開するときに作られた駅である。
周辺はスポーツ合宿所が多いようで、駅前には学生の集団が歩いていた。
この辺りまでは、復興したのでぜひ遊びに来てね♪という感じのする場所だった。
このあたりの県道391号は、復興のためということで、2車線の非常に広い、舗装もきれいな道が整備されていた。
ただし、福島第一原発の廃炉作業に従事する労働者を運ぶ大型観光バスがひっきりなしに行き交っていた。
さて、さらに進んでいくと福島第二原発を遠くから見ることができる場所があった。
このように、とくに隠すことはしていない。
道沿いに進んでいくと、道路から非常に近い場所に福島第二原発のフェンスがある場所があった。
英・中・韓の3言語で注意書きが書いてあるので、日本人だけでなく、YouTuberなど外国人が多く訪れたのだろう。
この原発フェンスから数百メートル進むと、常磐線富岡駅に折れるT字路で、その先は県道391号線の青看は行き先が消されていた。
しかし、道路はまだ進んでいたし、とくにバリケードもないので直進することにした。
さらに数百メートル進むとまたT字路があり、右に入る県道391線は、そこから一気に1.5車線になり整備状態も悪くなった。
少し進むと、帰還困難区域のバリケードを見かけるようになってきた。
また、奥にバリケードや警備員詰所がある路地も多くなってきた。
行けるところまで行こうと思い進んでいくと、途中で道路がふさがれていた。
このときちょうど、警備の車がわたしの前で折り返していって、おそらくみられていると思ったのでバリケードの前までは行かず、この地点で引き返すことにした。
引き返した地点の横にあった、脇道のバリケード。
そのあと、写真はないが6号線に戻って北上していった。
途中、国道沿いには2箇所の放射線のモニタリングポストがあった。
これは動画からの切り抜きだが、福島第一原発に向かう道路との交差点直前で0.988マイクロシーベルトを示していたのが、この旅行でもっとも放射線量が高い地点だった。
もうひとつの地点(双葉町市街地寄り)は0.206マイクロシーベルトで低かった。
少し双葉の市街地に入った。
ただ、双葉市街地はたしかに廃屋もたくさんあるのだが、むしろ震災からの15年で日本に寂れた場所が増えすぎて、この地域は原発事故という非常に特別な事情があるが、そのことを除けば景色自体に思ったよりも驚きを感じなかった。
そのあと、福島県 東日本大震災・原子力災害伝承館という博物館に行った。
この博物館は、日本人は全員見にいくべきである。
普段日本人という主語を使わないが、この博物館に関しては日本人という主語を使ってよいと思う。
博物館を見ての感想としては、自分は震災直後は原発に怯えていたが、その後、そのことを完全に忘れていた。
しかし、何も終わっていないじゃないか、というのがこの博物館を見てもっとも感じたことだった。
そして「日本は失敗した」ということもそうである。
その失敗の主体には自分も含まれる。
展示の中に、床に原発周辺の地図が描かれたシートが敷かれたものがあった。
これはまさに自分がさきほど自転車で通ってきたルートそのものだったので、より実感があったのかもしれない。
ただし……。
語り部の方の講演会があり参加したのだが、語り部の方の話す、国や東電、そして日本全体への批判には完全に同意した。
しかし、その語り部の方の話していた、電気を使わない生活の実践や、現在の生成AIサービスのような大量の電力を消費する行為への批判といった部分には完全には賛同できなかった。
電気を使わない生活、自然に寄り添った生活というのは、容易に科学全般の否定に接続されてしまう。
その方はご子息・配偶者・肉親を津波で亡くしたのでその考えになることは理解できるし、そんな体験をしたら、科学などというものがもう一切信じられなくなるというのは当然だ。
だが、震災のあと、放射線を恐れ、自然派になることで、どんどんエスカレートして宗教的信念に陥ってしまう人を見てきた。
原発を恐れることにも科学が必要であり、そのためには電気そのものは必要だとわたしは考えている。
なので、社会への批判には賛同するが、生活への態度には賛同できなかった。
この件については、ベストかはわからないがベターな方法として、いまとなっては日本よりもはるかによい製品を作ることができる中国からソーラーパネルを輸入すればいいじゃないか、とわたしは考えている。
日本でアンチ太陽光発電が力を持っていることを苦々しく思う。
そしてアンチ中国が力を持っていることも非常に苦々しく思う。
その一つの象徴としては、東日本大震災・原子力災害伝承館には、鍵括弧付きの「台湾」からの震災の支援としての、GIANTのマウンテンバイクが展示されていた。
日本において「大陸の中国の人たちと違って、台湾の人たちは日本の味方をしてくれるいい人たちだ」という安易で軽薄な見方が広まっていることについても、わたしは苦々しく思う。
GIANTほどに、両岸の垣根なしに活動している企業はないと思うのだが。
それはさておき、東日本大震災・原子力災害伝承館の隣にある双葉町の施設の屋上からは、福島第一原発の煙突を見ることができた。
さて、東日本大震災・原子力災害伝承館を見たあと、仙台へさらに北上する。
途中、津波で塩を被って、木が立ち枯れになっている場所があった。
途中、国道6号線方面に戻り、常磐線の小高駅前で「おだかのひるごはん」という食堂でチャーシュー麺を食べた。
小高駅前には、移住してきた作家の柳美里さんが運営する書店があるのだが、この日は閉まっていた。
小高駅の西側から国道6号へ復帰するとき、陸橋を避けるために裏道に入ったら、とても狭い踏切があった。
国道6号線は交通量が多いので、再び海側の浜街道(福島県道260号)に出た。
途中、南相馬市に「福島ロボットテストフィールド」という施設があり、敷地外から「Zippar」という輸送機関のテスト線を見ることができた。
途中にはいくつも慰霊碑があった。
これは南相馬市の「金沢行政区」の慰霊碑。
この金沢行政区の慰霊碑の横には、それ以前に建てられた区画整理の石碑もあったのだが、これがすさまじかった。
ご覧のように角は欠け、表面には傷がついている。
おそらく震災で流された後に再建されたのだろう。
これは相馬市の慰霊碑。
こちらはたくさんの名前が刻まれていたのだが、同じ名字が連続している箇所がたくさんあり、一家全滅の事態が大量にあったことを示していた。
相馬市では、松川浦という砂州の道を北上したのだが、ちょうど雨雲が通過しているときで、せっかくの景勝地なのに靴下までずぶ濡れになってしまった。
松川浦を抜けると、このように巨大な海食崖があった。
このあたりの浜街道を走っていると、海食崖をくり抜いた洞窟を倉庫としている家がたくさんあったので、海食崖が生活の中にある地域のようだ。
相馬漁港の売店もあったが、服が雨で濡れていて迷惑をかけるのでスルーして北上。
福島県浜通り北端の新地町。
そのあと宮城県(山元町)に入るが写真はない。
画像は亘理町のかなり北の方、阿武隈川直前で撮影。
阿武隈川。
岩沼まで来たら仙台はすぐだと思っていたが、4号線が危なくて走れたものではなく裏道を進んだので思ったより面倒だった。
ということで仙台駅に到着。
仙台に来るのは2016年以来なので、ちょうど10年ぶりだった。
この日は、JR東仙台駅近くにあるホテルに泊まった。
走行距離172.3km。
ただし仙台駅付近の高層ビルで標高には誤差が出ているため獲得標高はこのGPS表示よりずっと少ない。
