長島有里枝 『「僕ら」の「女の子写真」からわたしたちのガーリーフォトへ』 書評

長島有里枝 『「僕ら」の「女の子写真」からわたしたちのガーリーフォトへ』 書評

皆さんこんにちは。

フィルムカメラ系VTuberの、御部スクラです。

今回は読んだ本の感想の動画です。
紹介するのは、長島有里枝さんの『「僕ら」の「女の子写真」からわたしたちのガーリーフォトへ』です。

『「僕ら」の「女の子写真」からわたしたちのガーリーフォトへ』

『「僕ら」の「女の子写真」からわたしたちのガーリーフォトへ』

『「僕ら」の「女の子写真」からわたしたちのガーリーフォトへ』は2020年の1月に出た本で、写真表現に興味がある方の間では話題になったので、読んだ方も多いと思います。

この本はどういう本なのかをざっくり話すと、1990年代、この本のタイトルにもなっている、「ガーリーフォト」とか「女の子写真」と呼ばれた写真の潮流があったんですね。
具体的には、若い女性の写真家が1990年代に続々と出てきて、新しい表現をするようになった。
蜷川実花、HIROMIX、そしてこの本の著者である長島有里枝。
その3人は、最終的に2001年の木村伊兵衛賞を同時受賞します。

というのが、これまで一般に知られていた、ガーリーフォトとか女の子写真と呼ばれてきたものの説明で間違っていないでしょう。
たとえばWikipediaでもだいたいそんな感じで紹介されています。

それに対して本書は、これまで語られてきたガーリーフォトへの認識というのが、批評やメディアによって作られてきたものなのではないか、ということを批判しています。
本書はジャンルでいえば学術書なのですが、今後、日本の1990年代の写真史を論じる上で欠かせない書籍になることは間違いないでしょう。

本書が批判する内容

では、この本がなにを批判しているのかというと、1990年代の、批評などの語りが、女性であるがゆえに、存在を矮小化していたこと。巧妙に差別的な言説が繰り広げられていた、ということについてです。

たとえば、カメラが自動化して、簡単になった女性でも写真を撮れるようになったという風潮は、女性のほうが頭が悪いという考え方を前提にしています。
また、本書で取り上げられている女性の写真家には、セルフヌードを表現の手法として用いた人もいるのですが、当時のメディアではそういう作品に対してえてして男性による消費的な評論が行われました。
そもそも写真に限らず、女性が消費の対象とされてきたことが批判されています。

とにかく、写真の世界に限らないことでしょうが、女性は男性よりも劣っているということが、直接的には言わなくても、暗黙の前提とされていたのです。

これまで書かれた歴史が批判される時代へ

当時の写真家や写真評論家の多くが、具体的に批判されています。
もっとも批判されているのが飯沢耕太郎です。

というよりも「女の子写真」というジャンルを作ったのが飯沢耕太郎だったのです。
さまざまな人が本書の感想で同じことを書いていましたが、本書は飯沢耕太郎批判の書といっても過言ではないかもしれません。

飯沢耕太郎という人は写真評論家で、いまでは大御所といって差し支えないと思います。
日本において、写真の歴史というのが学術的な対象になったのが、だいたい1985年といわれていますが、その時期から精力的に、写真を歴史、芸術、批評の対象として盛り上げてきた人です。

写真評論という世界を切り拓いたという点では、とても重要な仕事をした人だといえるでしょう。
でも、1985年に写真がアートになってから数十年が経ち、かつて書かれた歴史が批判の対象となる時代がやってきた、ということなのだと思います。

飯沢耕太郎はそのものずばり、2010年に『「女の子写真」の時代』という本を出しています。

飯沢耕太郎『「女の子写真」の時代』

これまで、飯沢耕太郎が書いた文章というのは実質的に正史と思われていたわけですが、長島有里枝の本書は、それに対するカウンターであり、写真評論の世代交代を象徴しているともいえるでしょう。

本書は明白にフェミニズムの本で、フェミニズムというとインターネット上では評判が悪いし、かつての大御所を批判することはともすればキャンセルカルチャーであると思われる可能性もあると思います。
ですが、本書で行われている批判は、どの箇所も筋の通ったもので的を射ています。

「僕」「ぼく」という一人称

細かな点として、飯沢耕太郎だけでなく何人もの評論家の言葉が引用されるなかで目についたことがあります。
それが「僕」「ぼく」という一人称の危険性です。
本書のタイトル自体にも「僕ら」の「女の子写真」とありますが、男性が文章、文語で「僕」「ぼく」という一人称を使うことは、自分が権力を持つ側にいることを脱臭してしまいます。
これは写真評論に限らず、現代のインターネット上の文章でもそうです。
基本的に、一人称に「僕」「ぼく」を使うのは意識的な行為です。
そういう一人称が使われている文章を読むときは、警戒心をもつ必要があるのではないか、と思います。

「カメラ」「写真」が男性の世界とされてきたのはなぜか?

ひとつ、わたしの疑問というか問題意識として、わからないことがあるとすれば、どうして「カメラや写真は男性の世界」と思われてきたのかということです。

とくに本書の後半ではフェミニズムやジェンダーに関する文献から、男と女という二元論が批判されています。
ですが、女性に対して「欲望」を抱いたのは、現に男性であるということは本書でも前提とされている、と思います。

もしかすると、フェミニズムの論理のなかでは、男性がそういう加害性を持つこと自体も社会によってそうさせられている、ということが自明である可能性もあるのかもしれません。

でも、巧妙に女性を矮小化する、という言動自体が男性によって行われてきたのなら、そこではやっぱり「男性」という概念を持ち出さないといけない……。

男性の加害性という問題は、問題としては存在していると思うのですが、「男性の」と言ってしまうと、それ自体が性別を二分するものになってしまう。
ちょっと、ここはどうどうめぐりになってしまい、社会学とかを専門としていないわたしには言及しきれない領域かもしれません。

フェミニズムの論理というのに、わたしは詳しくありません。
ですが、ひとつ確実にいえるのは、人間は、自分の言説というのを、意識的にせよ、無意識的にせよ、他人を利用して自分を上げるために巧妙に利用する、ということなのだと思いました。
それはきっと、わたしもやっていることです。

本書は当時の文章のレトリックを細かく分析して批判していますが、他者の言葉を警戒して読むことの訓練にもなるのではないか、と思いました。

哲学、社会学、フェミニズムの素養がない人にとっては読みにくいのが勿体ないところ

ただ、ひとつ勿体ないことがあるとすれば、本書は著者の長島有里枝の修士論文をもととしていることもあって、文体が非常に読みづらいです。

おそらくはフェミニズムの理論をもとにして、非常に精緻に展開されていることはわかります。
そして、これまで正確さを無視して、レトリックを展開することでガーリーフォト、女の子写真という「物語」が語られてきたことを批判している以上、細部に至るまで妥協することができなかったこともわかる。

でも、そのことで逆に、哲学や社会学、フェミニズムについて前提知識を持たない人にとって、読んでいて非常にしんどいものになってしまっているのも事実です。

本書が批判している、飯沢耕太郎の『「女の子写真」の時代』というのは、文章だけみれば、とても読みやすいです。
読みやすいがゆえに、レトリックが巧妙で、女性写真家を矮小化することができてしまっている、ともいえます。

長島有里枝の書いた本書は、今後写真史を考える上で前提になることは間違いないでしょう。
でも飯沢耕太郎が書いてきた認識を、どこまで塗り替えて、取って代わっていけるか、というところで、精密であるがゆえの読みにくさ、というところがハンデになってくるのではないか。

という意味で、長島有里枝の本著を前提にしたうえで、さまざなメディアで後に続く論考が繰り広げられていく必要があるのでは、と感じました。

というわけで書籍の紹介でした。
ありがとうございました。
御部スクラでした。