書評 粟生田弓 『写真をアートにした男 石原悦郎とツァイト・フォト・サロン』

書評 粟生田弓 『写真をアートにした男 石原悦郎とツァイト・フォト・サロン』

みなさんこんにちは。
フィルムカメラ系VTuberの御部スクラです。

今回はちょっとした書評の動画です。

粟生田弓(あおたゆみ) 『写真をアートにした男 石原悦郎とツァイト・フォト・サロン』
2016年、小学館から出た本です。

石原悦郎(1941-2016)というギャラリストの伝記

この本は、石原悦郎(1941-2016)というギャラリストの伝記です。
そしてそれは同時に、石原悦郎が運営していた、日本初の、写真を取り扱うコマーシャルギャラリー、ツァイト・フォト・サロンの歴史をそのまま紹介する内容でもあります。

ツァイト・フォト・サロンというのは、日本で初めて、写真のオリジナルプリントというものを商品として取り扱った画廊、だったんですね。
いま、ファインアート系の写真をやっている人にとって、オリジナルプリントというものに美術品としての価値があるのは疑いようのないことだと思います。
でも。
オリジナルプリントに価値がある、ということは、本書で紹介されている石原悦郎という人が持ち込むまで、日本に存在していなかったんです。

じゃあ、写真の価値とはなんだったのかというと、印刷のための原稿だったり、写真集という書籍が最終的な形態だったり、ようするに、写真は複製されるものであり、プリントというのは途中経過でしかない、と捉えられていたんですね。

それが、石原悦郎という人がそのような価値観を持ち込んで10年くらいで、1980年代の終わりには、オリジナルプリントの価値というのが、日本において広く認められるようになったわけです。

本書が扱っている石原悦郎の仕事を追うということ。
それは、いま広く共有されている写真という芸術品の価値観が成立していく歴史を追う、ということになるわけです。

写真を見せることができない時代とオリジナルプリント

ですが。
本書は、新型コロナウイルスが蔓延している2021年という時代に読むと、また違った印象になると感じました。
オリジナルプリント、確かに価値があるものだと思います。
ですが、オリジナル「プリント」というだけあって、紙、印画紙という物理的な媒体があることを前提としているものですよね。

で、オリジナルプリントを買うにしても現物を見ないといけないわけですが、いま、新型コロナウイルスの影響で、ギャラリーに行こうとしても行けないですよね。
いや、写真ギャラリーは悲しいことに混雑することが少ないので、展覧会が開かれてはいます。
でも、実際問題、写真を扱うギャラリーが多い、東京や大阪の街中に出かけようにも、出かけられないですよね。

そして、写真をやっている人が作品を見せようとしたときに、これまで以上に、オンラインでの公開という見せ方が意識されるようになっています。
「オンライン開催」みたいな言葉が濫用されることについて思うところはありますが、実際問題として、見せることができない、というわけです。

さらにちょうど、この動画を作っている少し前に、Canon写真新世紀が2021年で最後になるという発表もありました。
写真という芸術のジャンルを展示するということが、転機を迎えているんじゃないか、と思うんですよね。

本書を読んでいるなかで、わたしはそういう疑問のようなものがどんどん湧いてきました。
すると、この本でも最後の最後に、著者がたぶん同じようなことを書いているんですよ。
石原悦郎が、写真というジャンルについて語っている内容を孫引きしますが、
「物を生産する、創る、クリエイトするということに関してはね、どんどんエネルギーが欠如してきているんですよ。やっぱり写真が美術館だとかギャラリーのメディアになったということで、作家は逆にいなくなっているんです。オリジナル・プリントという言葉に惑わされて……。僕はあえて自分でやっててそれを言うんだからまちがいない。それで写真はどんどん弱くなってくる。力もなくなってくる」

オリジナルプリントということ自体、写真を見せるひとつの方法でしかなく、ジャンルではないんですよね。
もちろん、写真集で見せるとか、写真展で見せる、ということも、見せる方法でしかないです。

もしかして、プリントを売るというジャンルの作品。写真集というジャンルの作品。
そういう、ジャンルの芸術をやるようになっているのではないか、ということを、強く思いました。

とはいっても、わたし自身、ほかに新しい表現方法が思いつくわけではないのですが、でも、ちょうどいま、2021年、新型コロナウイルスというタイミングは、写真にせよほかの芸術のジャンルにせよ、見せる方法ということを考えるタイミングなのではないでしょうか。

写真は素材でも良いと思う

わたしの立ち位置としては、写真は、素材でいいんじゃないか、と思っています。
もちろん、写真を写真として見せることは大好きだし、写真を撮ることは大好きです。
でも、それはひとつの考え方でしかない。

写真というものが、いまや確固としたジャンルとして完全に認められたからこそ。
今度は、写真は芸術でもあるけど、芸術ではない、ともいえるよね、ということが大事なんじゃないかなーと思っています。

写真新世紀も、なんだかインスタレーションみたいな作品ばっかりだし、写真というジャンルに閉じこもる必要ないと思うんですよね。

ちなみにわたしがなんでこういうことを思うかというと、プライベートな話になりますが、昔ウェブ制作の仕事をしていて、無限にフォトショで素材写真を切り抜いていたからです。
芸術として撮られた写真と、素材として撮られた写真に、優劣をつけることって、できるんでしょうかね?

というわけで、今回は粟生田弓(あおたゆみ) 『写真をアートにした男 石原悦郎とツァイト・フォト・サロン』の書評の動画でした。
わたしが写真について思っていることを話しましたが、なにか参考になれば幸いです。

ありがとうございました。
御部スクラでした。

書籍紹介ページ(ツァイト・フォト・サロン、小学館)

https://www.zeit-foto.com/product-page/%E5%86%99%E7%9C%9F%E3%82%92%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%9F%E7%94%B7
https://www.shogakukan.co.jp/books/09682224